武道の可能性を探る
「学校の先生に学ばせたい武道」
(月刊「武道」2010年10月号より転載)
《テレビドラマ「ごくせん」に思う》
数年前から去年にかけて、日本テレビ系のテレビドラマ「ごくせん」が話題を呼んだ。何度か再放送され、惜しまれつつ終ったドラマである。ある私立高校で、とんでもないワルの集まったクラスの担任を仰せつけられた仲間由紀恵扮する若い女性の先生が、生徒たちを無事卒業させるために苦心惨憺する。先生ばかりか、およそ大人に対して不信感を持ち、規律とか秩序などに背を向け、先生の言うことを聞かない生徒たちが、いつの間にかその先生に従っていくきっかけになったのが、対立する不良集団から手荒いリンチを受け、生徒全員満身創痍の状態に陥った現場に突然現れ、とっては投げ、つかんでは投げ、相手の集団をほうほうの体で退散させたその先生の鮮やかな技だった。命がけで自分の生徒を守る、その態度にワルの生徒たちも次第に心を開いていかざるをえなかったのである。
このドラマには批判があったかもしれない。生徒たちのワルぶりも、あまりに度を越して、現実にはありえなさそうに思われた。力に対して力で対応することへの抵抗感もあっただろう。ただ私が思ったのは、もし現実にこのような生徒がおり、その生徒を心の底から立ち直らせる方法があるとすれば、それはただ一つこれしかないということである。
元来、力を誇りとする者は、自分より強い力を持つ者に、ある畏敬の念を持つ。「参った」という心境の中には、悔しさとともにその種の感情が同居していると思われる。力のみを誇りとする者を「参った」と思わせるには、自分の力は役に立たないということを思いこませるしかない。ドラマの中の先生は、決して自分の生徒を殴ったり、投げ飛ばしたりはしなかった。しかし、自分たちより強い集団を力と技で退散させたその実力への畏敬と、自分たちを助けに来てくれたという思いが重なって、「参った」という心境を生んだのであろう。先生への畏敬と信頼は、力を誇りとする生徒にとっては、このような方法しかないというのが、私の見解である。
《教師の使命》
学校の先生の使命は何だろうか。自分の専門とする分野の知識を授けることが中心をなしていることは疑いない。しかし、多くの先生は、自分の使命はそれだけでないと思っておられるだろう。生徒たちに生き方を教え、人生の何たるかを教え、精神的な成長を果たさせることが使命だと思っておられるだろう。だからこそ、生徒の精神的成長を感じた時、教師としてのよろこび、生きるよろこびさえ感ずることになるのだと思う。
そうだとすると、そこに大きく立ちはだかるのは、自分の教えをまるで受けつけない生徒の存在である。彼らの動機は実に多様だろう。彼らに生き方を教え、生き方を改めさせるためにはどうすればよいか、それは先生にとって最大の悩みに違いない。特に乱暴で、周りの生徒たちにも、場合によっては先生に対しても暴力をふるったりそれを誇示したりする生徒の場合、その当惑は頂点に達するだろう。しかし、そのような生徒ほど、教育の成果が必要であり、担任の先生にその責務が重くのしかかってくる。無理だとあきらめてよいのだろうか。
経験を積んだベテランの先生の中には、体からオーラを発散しているような大人物がおり、ワルの生徒も手も足も出ないというような方がいらっしゃるかもしれない。しかし、若い先生にそれを求めるのは無理と言わねばならない。若い先生、特にか細い女性の先生の場合、いったいどうすればよいのだろうか。
私が学校の先生に武道を学んでほしいと考える根拠は、それ以外にこの問題を解決する方法はないと思うからである。私は決して、自衛技術として武道を推奨しているのではない。またよく言われるように、武道の持つ礼儀を教えることを期待してこの主張をなしているのでもない。もっとせっぱつまったところで、先生が武道の素養と技術を身につけるしか教育の効果を発揮できない生徒が必ずおり、それに対して教師としての責務を果たしうるにはこれしかないと考えるからである。つまり、武道を身につけること自体がある意味で必要不可欠な教育手段と考えざるをえないような場面が、必ずあると思うからである。
《武道が教育効果を発揮する形》
それでは極限的な場合、どういう形で武道が教育効果を発揮するのだろうか。体罰の禁止という原則は基本的に守られなければならないから、先生は決して先に手を出してはいけない。しかし先生にも正当防衛権はある。正当防衛をなしうる状態というのが、実は一つの絶好のチャンスと考えるべきではなかろうか。暴力を誇りとするような生徒が、弱そうに見える先生に襲いかかる。その時、鮮やかにステーンと投げ飛ばし、その上で穏やかにそのような生き方をズバリと諭す。その行動は、襲いかかった生徒ばかりでなく、それを見ていた他の生徒の胸にも突き刺さる教育といってよい。それは体罰でも制裁でもない。
私が東京都連盟の会長をしている少林寺拳法の場合、試合の前後必ず相互に合掌をすることになっている。お互いに全力を尽くして戦ってくれたことへの感謝の念を表すことが中心をなしていると思う。しかし、決してそれだけではないであろう。暴力は本来ふるうべきものではなく、暴力をふるうことがお互いに精神を高める場合にのみ許されるという思想が根底にあるように私は考えている。相手が強盗であっても、それを投げ飛ばし、とどめを刺す寸前まで追い込む技をとった以上、それが相手の精神を高めるという意義を持っていたことを表さなければならない。抵抗不能に陥った強盗に対して、「もうこんなことはするなよ」と合掌する。そこに少林寺拳法の非常に高い哲学が含まれていると思う。これは教育現場における武道の技の活用方法として参考になる考え方ではなかろうか。
しかし、先生が武道の素養と技を身につけることの意義は、何もそれを行使する場合にだけ発揮されるものではない。いざ暴力をふるわれそうになった場合はもちろん、そこまでいかなくても、生徒が居丈高になって、あるいは先生を小馬鹿にしたような態度をとって向かってきた場合、先生が引け目を感じたり、いわんや恐怖心を抱いたりしていたのでは、彼らを諭すことも立ち直らせることも絶対にできない。そこで必要なのは、もし襲いかかってきたときにはステーンと投げ飛ばし、相手に参ったと感じさせた上で「私の言うことを聞きなさい」とたしなめられるだけの自信である。必要なのは、「行使しないけれどもいざ行使したときにはあなたには負けない」という実力とそれへの自信である。必要なのは弁舌でも理論でもない、相手を打ち倒せる技の上に築かれた自信と、高く出ようとする相手をも圧倒する気力であり気迫である。
《武道を身につけた先生を増やす方法》
このように考えてみると、極端に言えば、「学校の先生はことごとく武道を学んでいただきたい」ということになる。しかし、現実にそれが不可能ないし相当困難であることは、私も承知している。そもそもそう考えることが不適切だという見解のありうることも、その理論ぐるみで予想している。しかし、「多くの先生に武道を学んでほしい」という見解を、前述のような理由づけでもって説かれた場合、どう反論するのだろうか。
武道を身につけた先生を増やす方法には、現在着任している先生に新たに何らかの仕方で、何らかの武道を習っていただくという方法が当然含まれる。前述のような私見を正しいと考えるならば、学校や教育委員会は現場の先生の武道学習条件の向上に配慮すべきであろう。
しかし、そのような先生を増やす方法は、現在の先生に新たに武道を学んでいただくことに限られない。今後教員採用に当たって武道の素養の有無を判断材料にしたり、教員養成校の教育体制の中に武道教育を含めるなど、いろいろな道が考えられる。中学校における武道の必修化に伴う担当教員確保にも道を開くことになると思う。
私は武道家ではないから、自分の地位向上のためにこの言説をなしているのではない。日本の教育を憂いてのことであり、暴力的な生徒を前にして当惑する先生に教育の効果を発揮していただきたいがためである。そもそも私のこの見解が、事実を知らない荒唐無稽な考えなのかどうか、武道界、教育界で真剣に議論してほしいと思う。
西原 春夫(にしはら・はるお)
昭和3年(1928)東京生まれ。早稲田大学大学院法学研究科博士課程修了。法学博士。昭和42年〜平成10年早稲田大学教授。昭和57年~平成2年早稲田大学総長。平成5年~21年社団法人青少年育成国民会議会長、平成10年~17年学校法人国士舘理事長等を歴任。現在、早稲田大学名誉教授、NPO法人アジア平和貢献センター理事長、東京都少林寺拳法連盟会長等。平成19年瑞宝大綬章受章。専門の刑事法学関係のほか、『日本の進路 アジアの将来』(講談社)、対談集『21世紀のアジアと日本』(成文堂)などの著書がある。
